Praeludium Scriptum Nova  

( プラエルーディウム・スクリプトゥム・ノヴァ/序章 )


 
「リテラシー」と「倫理」
そして、その違いを知る事は、ただ情報を読む力を持つためではなく、 
その情報と、他者と、そして未来と、 
どう向き合うかを選びとる“私”になるための準備です。   
   
Scriptum Nova の章では、こうした「思考の技術と構え」を軸に、   
IT、AI、メディアといった日常に潜むテクノロジーの問いを、   
 感性と言語でほぐしていきます。 
   

これは、“使えるようになる”だけでは終わらない、  
“生き方としての学び”をめざす航路のはじまりです。 
  
ここから始まる旅は、専門家になるためのものではありません。   
難しい言葉を“わかりやすく”する旅でもありません。   
難しそうと思い込んでいた世界が、私の日常とつながっていたと気づく旅。   
   
「ITリテラシー」も、「AI倫理」も、遠くの議題じゃない。   
投稿ボタンの前で指が止まるあの瞬間や、検索ワードに迷うあの時間――   
その全てが、私の中にある“問いの温度”と出会う入口なのです。   
   
この灯台が、あなたの“読む時間”にそっと寄り添い、   
まだ言葉になっていなかった感覚たちに、小さな光を添えられますように。 

 Scriptum Nova 

 (スクリプトゥム・ノヴァ) 

 言葉の温度に触れた時、
世界の“読み方”が少しだけ変わりはじめる 



✨ Scriptum Nova   

意味(文章による解釈) 

「感性で読み解き、言葉で描きなおす、新しいリテラシーの章」

- **Scriptum(スクリプトゥム)** … 書かれたもの、記述、記号   

- **Nova(ノヴァ)** … 新しい、新たな、未知の   

 ※ラテン語で「Scriptum Nova」は「新しい記述」「新たに書かれたもの」という意味になります。  

この言葉には“知識を受け取る”のではなく、“自分の言葉で世界を読み直す”という願いが込められています。 



私達は、誰かの“いいね”や画面の表示だけで、
世界をわかった気になってしまう時代に生きています。    

でも本当は、自分だけの言葉で読み解く力こそが、   

情報社会を進む時の羅針盤(らしんばん)になるのかも知れません。   

   

この章では、言葉と構造を通して、   

あなた自身の“航海日誌”を描いていく事を大切にしています。 

法律やルールの暗記ではなく、   

「どう伝える?」「どう受けとめる?」と  静かにたずね続ける事——   

それこそが、リテラシーと倫理の“本当の根っこ”ではないでしょうか。   

   

今、少しだけ立ち止まって。   

   

自分の感じたことに正直になったり、誰かの痛みを想像したり、   

発信の前に深呼吸したりする時間を、未来へ向かう力に変えていきましょう。   

   

あなたが勇気を持って進むとき、   

このページが星図のひとつでありつづけますように。 

📘 Capitulum I – Vox Tactilis 

 (ヴォクス・タクティリス) 

—SNSリテラシーと、ことばの温度— 

- Vox(声)+Tactilis(触れる) 

「触れる声」:SNS上のことばに宿る温度や気配を感性で読み取る力 

  

スマートフォンの画面に   

あなたが何気なく打った“ことば”が、   

誰かの心に触れるかもしれない。   

   

思ったことを、   

すぐに投稿できる時代だからこそ、   

わたしたちには“ことばの選び方”を選ぶ力が必要です。   

 

法律やルールの線引きだけでは届かない   

心の機微や温度差を感じとること。   

   

SNSのことばが、時にやさしく、時にに鋭く響くのは、   

そこに“触覚のような声”が宿っているからかもしれません。   

   

自分のためにことばを選び、誰かのためにも立ち止まる力。   

この章では、SNSに投稿することばを巡って、   

感性と責任で進むリテラシーの航路を描いていきます。 

 

この“触れる声”の章が、誰かの発信にそっとブレーキと翼を与えますように⛵️ 

Iter I – Sensum Excultum

(センスム・エクスクルトゥム) 

「感性は生まれ持つものではなく、磨くもの」 

SNSリテラシー×感性IT


意味:「磨かれた感性」/「感性を耕す旅」 

- *Sensum*:感覚・感性(ラテン語の「感じる」=sentire に由来)   

- *Excultum*:磨かれた・洗練された・耕された(cultus の過去分詞形)

 

言葉の温度を感じたこと、ありますか? 

SNSの“無言の圧”や“優しい返信”に、   

あなたの感性がそっと反応した瞬間を、今、もう一度見つめてみませんか。

「SNSで“声にならない声”を感じる時。」
 

言葉が発されていないのに、そこに何かがある気がした。      

SNSでは、見えているのは文字だけ。   

でも、感じているのは…。   

 

「あの投稿、なんだか刺さる」   

「“いいね”のタイミングが気になる」   

「既読なのに、返事がない…」   

   

その全てが、“目に見えない声”なのかもしれません。   

 

リテラシーを学ぶというのは、   

ただ“正しい使い方”を覚えることではありません。   

誰かの痛みに気づいたり、   

言葉の裏の沈黙に耳をすましたりする、「感性と責任で受けとめる力」のこと。   

 

そして、自分もいつか——   

「声にしきれなかったもの」を言葉にできる人になっていくこと。 


 ✨“誰かの沈黙を見過ごさない”という感性は、   

法律にもガイドラインにも書かれていないけれど、   

社会を守る上で、いちばん大切なリテラシーかもしれません。

Iter II – Verba Volant, Digitus Manet

 ( ヴェルバ・ヴォラント, ディギトゥス・マーネト )

 言葉は風のように舞い上がり、

そして、打たれたその指先だけが痕跡として残る。

SNSリテラシー×デザイン思考


意味:「言葉は飛び、指先は残る」/「記録としてのことばと、感覚の残像」   

- *Verba Volant*:ヴェルバ・ヴォラント   

 「言葉は飛ぶ」。*Verba* は「言葉」(*verbum* の複数形)、*Volant* は「飛ぶ(volare)」の三人称複数形。口に出された言葉は空中に消え、やがて消滅するという儚さを象徴。   

- *Digitus Manet*:ディギトゥス・マーネト   

 「指先は残る」または「(打ち込まれた)指が残る」。*Digitus* は「指」、*Manet* は「残る・留まる」の三人称単数形。キーボードやスマートフォンで打たれた“指の動き”が、**デジタル空間に痕跡として残る**ことを暗示。 

  

  

スマートフォンを開くたびに、私たちは何百もの“感じさせられる投稿”と出会っている。   

何気ない一文に共鳴したような気持ちになる。   

「わかる!」「いいね!」と反応する指先は、   

まるで自分の心を動かしたように見える。 

  

でもその共感、本当に自分で感じたものだっただろうか。   

もしかしたら、感じやすいように設計された投稿に、   

感性が寄せられていただけかもしれない。 

  

それが「アルゴリズムという、見えない共感のデザイン」。   

SNSの“おすすめ”は、ただ便利なだけではない。   

アルゴリズムは、あなたが「いいね」を押すその瞬間の感情さえ、   

“最適化”してしまう。 

 

わたしの指先が、今日も画面をなぞる。   

触れた瞬間に現れるのは、“感動したい”わたしのために   

整えられた、既にわかりやすい世界。   

  

けれど、本当に欲しかったのは、胸がざらりとする違和感かもしれない。   

言葉にならない音。 語られていない沈黙。   

  

アルゴリズムは優しい。   

でもその優しさは、わたしの感情すら“好ましいかたち”に整えてゆく。 

  

その投稿に、わたしは「共感した」のか。   

それとも、「共感しやすかったから選ばれた」のか。   

  

だれかの涙より、拡散しやすい笑顔の方が優先されるこの画面の中で、   

“届かない声”は、今日も画面の外にいる。   

  

もしかすると、ほんとうの共感とは「すぐにはわからない」感覚を抱えて立ち止まること。  言葉の奥に潜む、選ばれなかった感情に耳を澄ませること。 

     

 

たとえば——   

検索窓にふと「今日 見たことのない世界」って入れてみるような、   

そんな自由さを、わたしは持っていたい。 


「自分が気づいていない世界」をあえて検索してみよう。   

その行為の中に、まだ透明なままのわたしの感性が、 

そっと宿っているような気がするから。 

新しい音楽に出会える。想像もしなかったアートに触れられる。
知らない世界を見られる。   

ただ、その風に身を委ねすぎないで、   

時々は、自分で風向きを変えてみよう。 

Iter.III – Verba Lucentia

(ウェルバ・ルケンティア) 

ことばの温度が、関係の距離を決めていく 

SNSリテラシー×ブランディング

- **Verba**:「言葉、ことば」 

- **Lucentia**:「光るものたち」(“lucere=輝く”の現在分詞からの派生語) 

**意味**:「光ることばたち」/「輝きを帯びる発信」 

 

SNSは誰でも発信者になれる時代をもたらしました。   

でも、それは「言葉でつながる時代」ではなく、「言葉で判断される時代」だったのかも知れません。 

  

フォント・余白・絵文字の選び方、投稿のタイミング、使う一語のニュアンス。   

あなたが何気なく並べたことばたちは、無意識のブランディングを生み出します。 

  

- “冷たい印象”は、誠実さを損なうかもしれない。 

- “強すぎる言い切り”は、共感の入口を閉ざすかもしれない。 

- “やさしさの行き過ぎ”は、主体性を曖昧にするかもしれない。 

だからこそ、SNSでの表現は、「感性」と「責任」が交差する領域なのです。 

  

ブランディングとは、“自分を装うこと”ではない 

  

「ブランディング」というと、多くの人は「ウケる表現」や「キャッチーな自分像」を想像します。   

でも、この章で扱うのはそれとは逆の地点。 

  

あなたの“存在の芯”が、どういう言葉をまとって生きているか 

という問いに向き合うための基礎論です。 
 

- 自分らしさを“文体”で表すこと   

- 発信の中に “他者への責任”をしのばせること   

- 表現と行動を一致させる、“ことばの倫理” を持つこと 

これらが結ばれたとき、あなたのことばは「広がる」のではなく、「届く」のだと思います。 

 

ことばを灯す責任としてのブランディング 

  

SNSに投稿する、それは単なる情報発信ではなく、   

あなたがこの社会にどう存在していたいかを示す、言葉の実践です。 

  

拡散されることよりも、伝わること。   

「ウケる」表現よりも、「応答できる」表現。   

そんな思想に立ったとき、ブランディングとは   

「戦略」ではなく、「感性と責任が響きあう共鳴圏」に変わっていきます。 

  

私達の言葉が、「私だけのもの」で終わらずに   

他者との関係の“温度”を編む道具である限り、   

ブランディングとは、自分を飾る技術ではなく、   

共にある未来を照らす倫理であるべきなのかも知れません。 

  

そして何より—— 

あなたの言葉は、ストーリーで生きている。 

Iter.Ⅳ  Vocem Transversālis

(ヴォケム・トランスヴェルサーリス) 

 私を起点に、文化の壁を越え、世界を編む声へ 

 SNSリテラシー × 自分軸 × グローバル
 

- **Vocem**:声、ことば(ラテン語「vox」の対格) 
- **Transversālis**:「横断的な」「境界を越える」「交差する」   
 → “文化や国境を越えていく動き”を象徴 
意味:**横断する声**/**文化の枠を越えることば** 
  

🌐 SNSは“地球規模の感性実験場”である 

  

SNSにおいて、私達は日々、「翻訳できない感情」や「文化的前提」を伴う言葉をやり取りしています。   

それは、目に見えない“文脈の海”の中で発信し、受信し、判断されることの連続。 

  

つまりSNSとは、「情報を届ける場」ではなく、   

言葉が“国境を持たない感性”として試される場なのです。 

  

ここで必要なのは、正しい英語表現でも、フォロワーを増やすコツでもない。   

必要なのは、自分の発信がどの価値観の中で生まれたもので、どの価値観に届こうとしているかを意識できる、グローバル・リテラシーです。 

  

  

🧭 グローバル・リテラシーとは何か? 

  

それは、ただ「世界に通じる英語を学ぶこと」でも、   

「国際的に通用する自分をつくること」でもありません。 

  

“自分の中の文化的背景や思い込み”を客観視出来る力。   

異なる前提に立つ他者と、対話の“余白”をつくる感性。  

SNSの文脈を読みほぐし、文化横断的に発信する応答力。 

  

この3つの視点が組み合わさったとき、   

あなたのSNS投稿は単なる情報ではなく、文化をつなぐ“声”に変わるのです。 

  

  

️🤝アイデンティティを翻訳可能な“言葉”へ 

  

SNSでの発信は、しばしば誤解されるリスクを伴います。   

ユーモアが伝わらない。絵文字が真逆の意味で受け止められる。背景文化が違えば、「正義」や「善意」さえも衝突することがある**。 

  

だからこそ、グローバル・リテラシーの核はこう問うことなのです。 

✍️「この言葉は、どこまで“自分”を映しながら、どこから“翻訳”されるべきだろう?」 

  

- “私らしい言葉づかい”が、そのまま異文化でも意味を持つのか   

- “共通語”に変換するとき、何を守り、何を手放すのか 

  

この思索の延長に、“文化の壁を越える文体”が育ちます。 

  

 

💡 発信とは「わたし」と「世界」とのインターフェース 

  

SNSであなたが発することばは、たとえ1行であっても、 

  

その人の語彙が、その人の文化感覚が、 

その人が“世界をどう信頼しているか”が、静かに滲んでいます。 

  

だからこそ、自分の“軸”を持ちつつ、他者や世界と交差できる言葉を磨くことは、現代の発信者にとっての“詩的外交”なのかも知れません。 

  

🌍 Vocem Transversālis──越境する声 

  

グローバル・リテラシーとは、   

正解や勝ち筋を知ることではなく、   

“伝わらないかもしれない”という前提のもとで、   

言葉を丁寧に選び、編み、渡していく責任と詩情のこと。

「この言葉は、文化の壁を越える声になるだろうか」

その問いこそが、この章を通して育んでいきたい、
越境する言葉=Vocem Transversālisの核心なのです🕊️

 

  

さあ、世界と交差する言葉に、どんな命を吹き込みましょうか🌐✨ 

 

Iter.Ⅴ Polymorphic Self   

(ポリモルフィック・セルフ) 

複数の“私”が同時に生きている、

SNS時代の自己表現論 

SNSリテラシー×IT・AI倫理(自己実現)

意味:「多形的自己」/「文体として立ち現れる、ゆらぎある“わたし”」  

- *Polymorphic*:多形的な、多様な形をとる(ギリシャ語 *polys*=多くの + *morphē*=形 が語源)   

- *Self*:自己/自分自身。SNS上では投稿・語尾・絵文字・立ち位置などに滲む主観的存在のかたち   


言葉の投稿ボタンに、倫理が息を呑む 

  

「書きたいことはある。でも、これでいいのか分からない。」   

打ちかけた文が、スマホの画面で点滅する。   

言い回しを変える。絵文字を1つ消す。語尾を丁寧語に変える。   

そして――投稿ボタンの手前で、消してしまう。 

  

それは、“気分が変わった”からではない。 

それは、その投稿が「今の私」なのかどうか、分からなくなったから。 

  

SNSに住まうポリモルフィック・セルフ 

  

現代のSNSは、一つの「人格」では足りない。   

フォローしてくれる友人、職場、共通の趣味仲間、知らない誰か…。   

それぞれに対して、伝え方が変わる。口調が変わる。話題の選び方が変わる。 

  

そんな日々の「切り替え」の中に、私達は   

“独りの私”ではない、“複数の文体”として存在している。 

  

それが「ポリモルフィック・セルフ(多形態的な自己)」。 

  

今日は、優しい私で発信したかった。   

明日は、強く言いたくなる私もいるかも知れない。   

どちらも嘘ではなく、でもどちらも“全部の私”ではない。 

  

そうした“ゆらぎ”のある発信こそが、現代のSNSリテラシーの入り口なのだ。 

 

  

IT・AI倫理って、実はとても“人間くさい”もの 

  

「AI倫理」と聞くと、どこか遠くて難しい響きがある。   

でも実は、投稿するときに“これは人を傷つけないか”と自分に問いかける――   

その感覚と、とても近い。 

  

- 情報を出すとき、相手の文脈を考える事 

- 自分が正しいと思っても、「違うかも知れない」と保留する事   

- 見せたい自分を、押しつけすぎない事 

  

これらは全て、“言葉を選ぶAI”にも求められている倫理でもある。 

  

AIと人間の倫理は違うようで似ている。   

何故なら、どちらも“誰かに届く為の言葉”を扱うから。 

  

だからこそ、SNSリテラシーの延長線上に、AI・ITの倫理も連なっている。 

  

 

️発信とは、「ゆらぎ」に責任を持つ行為 

  

あなたは“自信がないから投稿出来ない”のではない。   

あなたの中で「複数の私」が合議していて、まだ合意が取れていないだけかも知れない。 

  

発信するとは、“揺れている事”を恥じずに、   

その日の文体をひとつ、そっと差し出してみる事。 

  

自己表現とは、固定されたアイデンティティではなく、   

日ごとに選び取られた「文体としての私」を肯定する事なのかも知れない。 

  

  

「言葉」は、人格を縫い直す針と糸 

  

SNSが与えてくれたのは、世界へ届ける拡声器ではなく、   

自分の中の“声”に役割を与える為の場なのかも知れない。 

  

- 躊躇して、黙る自分   

- 強く発信する自分   

- 間違いを認めて変わる自分 

  

そのどれもが、現代を生きる“リアルな私達”であり、   

その複数性を扱う事こそが、テクノロジーと共に生きる「次の表現倫理」である。 

  

 

発信とは、変わりゆく“私”を肯定する事 

  

Polymorphic Self――   

複数の自分が、同時に、矛盾しながら存在する。 

  

それは“迷い”ではなく、   

変わりながらも、問い続けられる事の強さである。 

  

言葉の倫理も、テクノロジーの倫理も、   

「ゆらぎ」を含んだまま、それでも表現しつづけようとする人間の営み。 

 

言葉に温度がある事、   

文化を越えて交わる事、   

自分と他者を見つめ直す事、   

そして、揺れていいという事。 

  

SNSという小さな発信の中に、私の“あり方”が滲むとしたら、   

それを丁寧に眺めながら、AIやITを学ぶ事は、   

きっと“自分を大切にする”事でもあると信じている。 

私を複数形にする事で、私を傷つけずに生きる。

独りの私で無理に語らなくていいから、“言葉”として形になる事が可能になる。 
複数形の私は、いつも、ありのままの私だから。 

 

🎬 Adhuc fruere! 

意味:「これからも楽しんで!」/「次回もお楽しみに!」